Электроника МК-52

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1983年〜1992年に旧ソ連の軍産複合体であるソヴィエト連邦電子産業省が開発・製造・販売した可搬型プログラマブルRPN関数電卓で、旧ソ連製電卓では第三世代にあたる。本機は当時、旧ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都キーウ(旧称キエフ)にあるKvazarで製造された。

Электроникаは、キリル文字からラテン文字へ翻字するとElectronika、英訳するとElectronics、和訳すると「電子工学」で、もともとはソヴィエト連邦電子産業省配下の工場が生産した電子部品に付されたブランド名だが、その後、それら電子部品を使用して設計・製造した家電製品にも付されるようになった。МКはロシア語のМикро Калькуляторの略で、英訳するとMicro Calculator、和訳すれば「小型計算機」である。

10年遅れのスペック、20年遅れの外装

手許にある本機の背面に刻印されたシリアルナンバーの隣に「92 08」とあるので1992年8月に製造されたと推定される。以下はこのことを踏まえてお読みいただきたい。

本機の新品を1つ購入すると、本機・専用ACアダプタ・マニュアルを外箱に収めたものが1セットとして送られてくる。2020年末時点では1セットが概ね10ドルで投げ売りされている。1セットだけ購入すると日本への輸送費のほうが高いため、ネタとして3セット購入した。3セットで輸送費と同価格だからだ。

外箱は、小学校低学年の図工で使う厚紙(正式名称は学校芸能工作用紙)よりも薄い紙によるサック組立箱で、その幅と奥行は本機がキッチリ入る大きさなので緩衝材を入れる隙間は無く、実際入っていない。薄い紙で作られた箱は強度が無いうえに専用ACアダプタがトランス式で重いため、箱の底が抜けているか、箱そのものが潰れている。この時点で、箱に収める目的が「輸送時の衝撃等から内容物を保護するため」ではなく「内容物を1セットにまとめるため」であることが判る。旧ソ連と旧共産圏諸国で販売・使用することを想定しているからか、外箱・本機・専用ACアダプタ・マニュアルの全てがロシア語表記のみだ。

本機の外装は極めて安っぽい。素材であるプラスティックの質が悪いことと、ちょっと強く握ると割れそうなぐらいの薄さであることが、持っただけで判る。このチャチな造作から、前者は材料工学が、後者は人間工学が、当時の旧ソ連では未成熟だったことを一発で解らせる。力が加わっても割れない素材を選択するとか、それが適わぬなら、力が加わる箇所を肉厚にして割れないように配慮するとか、非共産圏諸国の量産品では当たり前であろうユーザへの気遣いがまったく無い。外装の縁にはまるで当然のようにバリが残ったままで、電池ボックスの蓋は本体側と噛み合せが悪く、蓋を外すのは勿論、電池を入れた後に再度蓋を付けるのにも難儀し、付けても蓋は完全に閉まらず浮いており、うっかり触ると勝手に外れる。電源を含むスライドスイッチを出す穴も歪んでおり、スイッチの摺動部が穴の両端まで行かない。キーボードの各キーも、本来は色を統一したいはずだが、微妙に色が異なっている。たとえば、本来はライトグレーであろうテンキーは、数字に依って黄色がかっていたり青みがかっていたりする……等々、見れば見るほどツッコミどころが出てくる。初めて外装を見た管理人の第一声は「1980年代初頭に粗製濫造されたガンプラより酷いな」だった。なお、本機表側(キーボード側)に被せるプラスティック製の蓋も附属するが、これも微妙にサイズが合わない。

ACアダプタのAC側は旧ソ連国内に合わせ220V規格Cタイプのコンセントプラグ、本機側プラグは2ピンの独自規格[1]である。マニュアルは全383ページと大部であるため2分冊されているが、外箱に収めるためか幅132mm×奥行78mmという掌サイズ(HP-12C/HP-10C/HP-11C/HP-15C/HP-16CなどHP-10Cシリーズとほぼ同じ大きさ)。表紙を含め紙質は極めて悪く、日本では1980年代に小中高校のプリントで使われていた藁半紙そのものである。表紙こそカラーのオフセット印刷だが、本文はロシア語タイプライタで謄写版原紙に直接打刻し謄写版印刷したもので、それらが無線綴じされている。ただ、製本技術が未熟で、背表紙の糊付けが甘く、乱雑に扱うとメモ用紙のよう本文がにペリペリと剥がれそうで怖い。

表示部には1行8桁+2桁の蛍光表示管を、ユーザが組んだプログラムを保存する不揮発性メモリにはEEPROMを、それぞれ採用しているが、これらを採用した経緯は謎だ。蛍光表示管は1966年に日本で発明されたが、本機が製造された当時も今も非共産圏に属する日本の独自技術が、共産圏のど真ん中たる旧ソ連へ、どういう経緯で移転されたのだろうか。旧ソ連が独自に技術を習得(もしくはリバースエンジニアリングで技術を剽窃)した可能性は否定できないものの、正規の契約に基き日本から技術を輸入したのかは不明だ。なお、本機は表示形式の指定も選択もできず、仮数部8桁・指数部2桁の指数表記(HP製RPN電卓でいう〝SCIモード〟)固定である。これは非常に徹底されており、例えば0.0025をスタックXに積むべく       Войти⇧ と押下する[2]と、わざわざ2.5E-03に変換して表示する。EEPROMはその仕組み上、書換回数に上限があり、それを超えると書換不可能=プログラムが保存不可能となるため、製品の目玉機能として『ユーザが作成したプログラムの保存と書換が可能』を謳うプログラマブルRPN関数電卓に採用する不揮発性メモリとしては不適切だ。これを知ったユーザはプログラムの書換えどころか保存にも躊躇するだろうし、本機の中古品を購入することはEEPROMの寿命について諦めることを意味するからだ。HP製RPN電卓のように、不揮発性メモリとしてCMOSメモリを採用し、電池交換時には保存した内容が消去されることを前提としたほうが親切に思える。ちなみに、本機製造当時のアメリカや日本が製造したEEPROMは概ね10万回の書換が可能だが、旧ソ連製のそれは最大でも1万回が限界だったと謂われている。

キーボードの出来も非常に悪く、HP製RPN電卓と較べるのも烏滸がましい。なにしろ、キーを保持する方法が「金属製のバネ」ではなく、クッション材としてよく使われる「軟質ポリウレタンフォーム製のスポンジ」である。これを3mm程度の厚さにスライスし、押下したキーで短絡させる箇所に丸穴を開けたものを基板の上に置き、更にその上に各キーを支持するプラスティック製の枠を置いたのが、本機のキーボードである。よって、キーを押下したとてキーが浮きも沈みもせず、クリック感どころか押し味がまったく無いので、キー入力が成立したか否かは勿論、キーを押したかどうかすら、キータッチで判断できない。コンピュータである電卓の入力装置とはとても思えない、お粗末極まりない代物で、未入力や誤入力を連発する羽目になる。数字キーであればキー入力が成立すれば該当の数字が表示部に出力されるので辛うじて判るが、関数キーは入力が成立したか否かを客観的に判断する術が無い[3]ため致命的だ。本機の中古品を購入する際は「3mm厚のウレタンスポンジ」が経時劣化している(ことが原因でマトモにキー入力できない)ことを覚悟しなければならないが、そもそもポリウレタンは数年放っておくだけで空気中の水分により分子結合が脆くなり形状を保てなくなる「加水分解」を起こすので、本機の中古品は購入しないほうが良いだろう。尤も、加水分解は新品でも起きる事象なので、諸外国と較べても多湿な日本で本機をマジメに長期保存するなら、保存期間中は空気に触れさせないよう真空パックすることを考慮しなければならない。

幅211mm×奥行76mm×最大高さ31mmの横長の本機上側面には、別売された本機専用ソフトウェアROMを装着するための拡張スロットが1口実装されている。物理インタフェースは基板に直挿しされた1列22ピンのL字型(90度曲げ)ピンソケットにより直接引き出す形で造成されている。他製品用の部品を流用したのか、22ピンは等間隔に配置されているものの、ソケット部品としては17ピンと5ピンに分かれている。従ってソフトウェアROMの物理インタフェースは1列22ピンのピンヘッダである。尤も、非共産圏諸国での一般的なハードウェア設計では、現在に至るまで、頻繁に抜き挿しする箇所にピンソケットとピンヘッダを組み合わせた物理インタフェースは採用しない。ピンソケットもピンヘッダもそのような使用形態を想定してない部品で、数回ならまだしも、日常的な抜き挿しに耐えられる強度は無く、1度挿入したら長期間(下手すると廃棄されるまで2度と)抜去しない箇所の物理インタフェースとして採用するのが常である。実際、本機のソフトウェアROMは装着や抜去に相応の力と妙なコツが必要だが、それ以前の話として、当時の旧ソ連で本機の購入を検討できる一般国民が得られる収入[4]を考えると、公式には4種類[5]、実際には2種類(БРП-3БРП-4)しかなく、生産量も少なかった[6]別売ソフトウェアROMを2種類とも購入し、都度交換して運用するユーザは非常に少なかっただろうと思われる。購入するにしてもどちらか一方だけで、その後は本機に挿しっ放しだったのではなかろうか。ただ、本機に装着したソフトウェアROMは大きく飛び出る[7]ので、挿しっ放しだと持ち運ぶにも収納するにも邪魔なだけでなく、破損や故障の原因になりそうである。

実装された関数は、四則演算     の他に、三角関数   [8]とその逆関数   [8]・二乗 ・冪乗 [9]・逆数 ・開平 ・円周率 ・常用対数  とその逆関数 ・自然対数  とその逆関数  で、これら関数による演算で乗ってしまう公称最大相対誤差は(冪乗  のみ)オーダとされているが、三角関数・逆三角関数・各種対数関数で定義域の際付近ではマトモに演算できず、冪乗も誤差が大きい。三角関数は角度の単位を物理スイッチで切り替えるが、弧度法  だろうと度数法  だろうとグラード(フランス度)  だろうと、の演算には5秒ほど要し5.0000002E-01を演算結果として出力する。を冪乗  で演算すると、4秒後に7.9999993を演算結果として出力する。いずれにしろ演算結果に含まれる誤差は本機より10年以上旧式のHP-35のそれより大きい。

内部演算はBCDで実行されるが、その精度や数値の扱いはHP-35と同等程度だ。例えば    と  Войти⇧    のそれぞれの演算結果は正解である3を出力するが、    の演算結果は正解の1ではなく9.9999999E-01を出力する。この挙動はHP-35と同じである。これらの演算をHP製RPN電卓の第二世代にあたり1975年に発売されたHP-25以降でまったく同じキーインをすれば全問正解を出力するので、演算ロジック(ソフトウェア)の作り込みがHP-35と同等程度と判断せざるを得ない。HP-35は1972年に、本機は1983年に発売されているため、スペックとしては10年以上遅れていることになる。

1988年、艦艇の航法支援装置の一部として旧ソ連海軍が本機を採用した[5]ことは一部で知られているが、それ以上に、旧ソ連が伊達や酔狂ではなく非共産圏諸国と互角以上の技術力を有していた宇宙開発分野でも本機が使用されていたことは有名だ。1988年11月26日〜1989年4月27日、有人宇宙機СоюзソユーズミッションTM-7で宇宙に出ている[10]。その目的は、Союзソユーズが内蔵していた航法支援装置が故障した際の代替手段であった。即ち、もしСоюзソユーズの航法支援装置が故障し、地球へ帰還する軌道を演算・決定できなくなった場合は、搭乗した宇宙飛行士(3名のうち、恐らくフライトエンジニアであったСергейセルゲイ Крикалёвクリカレフ)がБРП-3を装着した本機で地球帰還軌道を演算・決定し、手動操縦で地球へ帰還する手順となっていた。これは、旧ソ連の宇宙開発方針から来る伝統で、打上げ機から切り離された有人宇宙機の航行と制御が「宇宙機に内蔵された航法支援装置による完全自動」か「宇宙飛行士による完全手動」かの二択しか無いことに依る。旧ソ連では『装置はミスをしないが人間はミスをする。よって、宇宙飛行士には極力何もさせない』という設計思想で有人宇宙機を開発していたため、地上の管制部門が宇宙機に内蔵された航法支援装置が故障したと判断し遠隔から無効化しない限り、宇宙飛行士は宇宙機を手動で操縦できないどころか、どのような操作も受け付けない仕組みであった。つまり、旧ソ連の宇宙飛行士は、いったん宇宙に出てしまうと、有人宇宙機が故障しない限りは『自動で勝手に飛ぶカプセルの中で、ただ座席に縛り付けられているだけ』のお飾り[11]でしかなかった。対するアメリカでは『装置は壊れてミスするが人間は訓練すればミスを減らせる。よって、宇宙飛行士が実行できる範囲の操作は全てやらせる』という設計思想で有人宇宙機を開発しており、自動化すべき箇所は自動化するものの、基本的には宇宙飛行士による手動操縦の余地を残し、装置故障など異常発生時の訓練を充分に実施してから宇宙へ送り出した。この差がアポロ13号で発生した致命的事故から全乗員を生還せしめたことを筆頭に、1960〜70年代の宇宙開発競争の雌雄を決した条件の1つと挙げられているが、本論ではないので以降の詳細は省く。

「共産主義」という壮大な社会実験が50年で失敗した理由が判る

本機を概観することで嫌でも判るのは、「共産主義」という壮大な社会実験が50年で失敗した理由である。

本機は、誤差の出方から、演算結果に誤差を含む理由はHP-35の脚注と同じと推定している。即ち、当時の旧ソ連では半導体製造技術が未熟かつ進歩しなかったことで、高速に演算するマイクロプロセッサと充分な演算精度を持たせられるだけの大規模ソフトウェアを格納できるROMやRAMを製造できなかった結果、演算精度と演算性能を妥協せざるを得なかったのだ。この推定が正しければ、当時の旧ソ連における半導体製造技術(集積度や高密度実装)は、当時はアメリカと日本が代表していたであろう非共産圏諸国の半導体製造技術から10年以上遅れていたことになるが、管理人は「さもありなん」と考える。共産主義かつ先軍政治体制が敷かれていた旧ソ連の国内工業は、ひとつの製品はひとつの国営工場で集約して製造することこそ正義[12]で、複数の工場が競って製造することは『非効率』『貴重な資源と資金の浪費』と見做される悪行であり、市場競争が働かない以前に競争原理が存在しない。しかもそれら国営工場の存在意義は、来るべき非共産圏諸国との核戦争に備えた軍需を満たすためにあり、製造される製品も軍需から要請される軍備品であった。故に、民需を満たす工場は非常に少なく、軍備品のお零れを仕方無く振り向ける形で民需に応えていた[13]。軍備品に求められる最優先事項は『故障せず常に確実に動くこと』なので、下手に小型化や省力化することで故障が頻発するようでは軍備品として失格であり、余程画期的なブレイクスルーでも無い限りは古い技術が使い続けられる[14]。その結果、自国の軍備が重厚長大であることを非共産圏諸国へ誇示することが重要な外交手段の1つであった、東西冷戦真っ只中の1980年代の共産圏諸国では、それを構成する部品や製品を小型化や省力化する動機や契機が皆無となる。市場競争が無いため新しい技術を産み出す動機も無く、十年一日の如く、古い技術が改良されぬまま延々と生き延びてしまう。共産圏諸国が自国の主義・主張の正しさを非共産圏諸国へ喧伝するための見栄と突っ張りを維持したい政府の指示で、非共産圏諸国で産まれた新しい技術は後から慌ててキャッチアップするものの、その中身は似て非なるものであることが多く、正確に取得できたものは数える程度だった…この悪循環に嵌った旧ソ連の様子が、本機を通してありありと浮かぶ。

翻って、非共産圏諸国で生活している管理人を含むユーザから見ると、本機の造りは「関数電卓」という製品の必要十分すら満たせておらず、やっつけ仕事にしか見えない。本機が最初に発売された1983年の日本は、1979年1月に勃発したイラン革命に端を発する第二次オイルショックによる不況からようやく脱出しハイテク景気と呼ばれる好況へ突入しようとしていた時期だが、管理人が小学生だったこの頃を思い出しても、さすがにここまでチープな家電製品は無かった。どんなに小さな製品でも発泡スチロールを緩衝材にボール紙や段ボールでできた箱に収められ、マニュアルは上質紙に印刷され、製品を手に持つときに気を遣う必要は無く、ボタンを押した感触は確実にあった。何より、本機と同じ年に日本で発売されたのがファミリーコンピュータだということが象徴的だろう。日本では8ビットCPUを実装した据置型家庭用テレビゲームの本体が平均月収の6%弱で買えた頃、旧ソ連では非共産圏諸国より10年以上遅れたスペックのRPN関数電卓を買うのに1ヶ月分の月収をまるまる費やさねばならなかったという事実が全てを物語る。あらゆる品物で毎年新製品がリリースされ、その度に小型化・省力化・洗練化されていなければ、その新製品が売れることはない資本主義では、相互に競争することが当たり前で、そのためには新たな技術の開発が必要であった。健全な市場競争が産む好循環である。それに引き替え、政治体制として企業間競争が禁じられると、民需に応える製品は数年以上のオーダで変わることもなく、しかもチープで異常に高価となる共産主義。この彼我の差は明らかに、資本主義により市場競争が機能し、それらにより起きた技術革新の恩恵だと断じている。

[15]

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スタック 3+1段
プロセッサクロック周波数 75kHz
使用電池 単3形×4本
製造期間 1983年〜1992年
製造国 旧ソ連
1983年発売時の定価 115ルーブル

脚注

  1. 形状と大きさはminiUSB A オス(plug)コネクタに似ているが、物理インタフェースは中央に丸く2ピンが並んで開いているものである。なお、どれだけ需要があるのか不明だが、この独自規格コネクタとUSB A オス(plug)コネクタを持つ、本機とЭлектроника МК-61専用の給電ケーブルが1本7ドルで売られているため、これも複数本購入した。この給電ケーブルを介してDC 5Vを出力する汎用USB充電器と本機またはЭлектроника МК-61を接続することで、単3電池を装着することなく使用でき、蛍光表示管も電池使用時より若干明るく表示される。USB電流チェッカーで計測すると、消費電流は最大で80mA、平均で40mA程度であるため、PCからの給電でも問題無い。
  2. 整数部がゼロの小数を入力する際は、整数部のゼロも必ずキーインする必要があり、HP製RPN電卓のように整数部のゼロの入力を省略できない。即ち、0.0025をスタックXに積むとき      と押下しても小数とは認識されず0025と表示され、このまま Войти⇧ を押下しても整数の25がスタックXに積まれる。
  3. 一部の関数キーで入力が成立すると蛍光表示管全体が一瞬チラつく場合もあるが、それすら無い関数が大半のため、キー入力が成立したかを客観的に判断できる術は無いと考えて良い。
  4. 旧ソ連の平均月収は、大学教授が320ルーブル、大学准教授が170ルーブル、ソ連軍中尉で230ルーブル、裁判官が210ルーブル、トロリーバス運転手が140ルーブル、教師が132ルーブルであった。旧ソ連の物価は、食堂の定食1食・牛乳5リットル・公衆電話で50回架電・トロリーバスまたは地下鉄の切符20枚が1ルーブル、殆どの借家の家賃1ヶ月分・ウォッカ1本と多少の肴が5ルーブル、レニングラード(現サンクトペテルブルク)〜モスクワ間の国内航空運賃が18ルーブル、自転車が50ルーブルだったそうだ。本機の定価が115ルーブル、ソフトウェアROMの定価が16ルーブルであることを考えると、本機とソフトウェアROMを1個ずつ購入する際は、感覚的に『1ヶ月間の飲まず食わずを覚悟』する必要があった。1983年の日本に置き換えれば『PC-8801mkIIのフルセットを現金一括払いで買う』感じだろうか。
  5. 5.0 5.1 現在まで現物が見つからない2種類はБРП-2 «Астро»とБРП «Гео»である。前者は航海時に天測と時刻から緯度・経度を求めて船舶の航路を特定するもので、旧ソ連海軍にしか提供されていない。後者は雑誌に名称のみ掲載されただけで詳細が一切不明という幻のROMだが、その名称から、地上で現在地の緯度・経度・高度を求めるためのものと推定される。詳細かつ正確な海図と地図が現在でも軍事機密として扱われ一般国民にも非公開であるロシアや旧共産圏諸国で、1991年の旧ソ連崩壊前にこの種のROMを自国民に発売する訳がなかろう。もし発売すれば粛清される可能性すらある。
  6. それはeBayをはじめとする取引市場やオークションサイトでの出品数や価格に如実に表れている。本機やЭлектроника МК-61は星の数ほど出品されており、1個10ドルどころか「1山いくら」という雑な扱いで叩き売られているが、稀に見掛けるБРП-3は1個60〜80ドル程度、1〜2度しか見たことがないБРП-4に至っては1個100ドル以上の値が付けられる。
  7. ソフトウェアROMの外形は幅59mm×奥行43mm×高さ16.5mm。装着すると本機のインタフェース嵌合部に多少埋没するものの、奥行25mm分は飛び出たままである。
  8. 8.0 8.1 本機とЭлектроника МК-61では三角関数の正接(ロシア語ではтангенс)をではなくと表記しているが、これはロシア数学界の流儀のようだ。ドイツが除算をではなくと表記するのと同じく、国による表記の違いが興味深い。
  9. 冪乗のスタック配置が通常のHP製RPN関数電卓と逆であるHP-35と同様、羃指数を先に、底を後に、スタックへ積む必要がある。しかし、本機にはHP-35と異なり10の冪乗  が内蔵関数として実装されているためスタック配置を逆にする必要性が無く、なぜこのような実装なのかは不明だ。
  10. それ以前のミッションやフライトで旧ソ連製関数電卓が宇宙に出たか否かは不明である。1967年4月23日に初めて宇宙に出て以降、2020年代でも現役というСоюзソユーズの長い歴史や、対するアメリカではHP-35が発売直後から宇宙に出ていたこと等から、本機より前にも旧ソ連から宇宙に出た電卓は有ると思うものの、本機以外でこの種の情報は現在まで詳らかになっていない。
  11. 宇宙開発競争が始まった当初の1950〜1960年代は旧ソ連が圧倒的優位に立っており、その隙にアメリカを突き放すべく、旧ソ連では「宇宙空間に動物や人間を送る」ことが計画された。最初は射場近辺で大量に捕まえることができた野犬のメスで数度試すこととし、Спутник-2スプートニク2号で宇宙に出たものの直後に機内で死亡したЛайкаライカは特に有名だ。その結果を精査し、いよいよ人間をとなったが、ソ連共産党中央委員会が発した命令書では、成功裏に人間を宇宙空間へ上げるまでの猶予期間は僅か3ヶ月しか無かった。1961年、ソ連共産党中央委員会は人類初の宇宙飛行士にЮрийユーリイ Гагаринガガーリンを選抜したが、その理由が「身体的・精神的耐久性に優れた労働者階級出身者だから」という時点で全てを察せよう。Гагаринガガーリンをはじめとするこの時代の旧ソ連の宇宙飛行士候補生20名が受けた訓練は、耐高重力・耐高加速度・耐不安・反射神経鋭敏化に関するものが殆どで、打上げ機の飛翔や宇宙機の軌道、宇宙空間における理学的・工学的な話題や課題に関することは勿論、自らの命を預けることになるВосток-1ボストーク1号の詳細も教育されていない。1961年4月12日06時07分(UTC)に宇宙空間に出たВосток-1ボストーク1号は1周90分の地球低軌道を飛行(実態は漂流)した後、地上からのコマンドで推進エンジンを逆噴射させて逆推進、07時55分(UTC)に地球へ帰還するという飛行計画に沿って設計されたが、この計画でГагаринガガーリンに与えられた役割は「90分間の飛行中、座席に縛りつけられた状態で機外(地表と宇宙空間)の写真を撮る」「管制員からの質問に答える」のみで、その答に学問的知識からの演繹や帰納が含まれることは期待されなかった。それどころか、当時の上層部は「宇宙飛行士へ中途半端に知識を与えると却って不安を抱くだろう(から学ばせたくない)」と考えていた節すらある。後年、アメリカの複数の宇宙飛行士と会話する機会があったГагаринガガーリンは、彼らから矢継ぎ早に浴びせられた専門的な話題や質問にまったく答えられず「軍事機密です」で逃げざるを得なかった己に愕然としている。
    1963年06月16日09時29分(UTC)に打ち上げられたВосток-6ボストーク6号で世界初の女性宇宙飛行士となったВалентинаワレンチナ Терешковаテレシコワに至っては、宇宙空間に出た直後からずっと「気持ち悪い! 頭も体も痛い!」と管制員に泣き喚いて八つ当たりし、機内で暴れて窓ガラスに罅を入れた挙句、嘔吐を繰り返すという半狂乱状態に陥った。当然、ソ連共産党中央委員会はこの事実を極秘とし、国営タス通信から内外へ配信された、«Яヤー Чайкаチャイカ» (「こちら、カモメです」)で始まる管制員との一連の通信を記録したフィルム映像は、曲り形にも軍人である矜持でどうにか取り繕ったТерешковаテレシコワ渾身の演技であったことが、ソ連崩壊後のГласностьグラスノスチ(情報公開)で明らかになっている。尤も、当時の旧ソ連では宇宙機と地上局の無線通信が非暗号のアナログ波だったため世界中のアマチュア無線家が傍受しており、噂の範疇ではあるがТерешковаテレシコワを危惧する声は出ていた。アメリカではCIAが傍受した内容を翻訳・解析し、当時の大統領であるJohn F. Kennedyをはじめ国家首脳陣と関係機関へ逐次報告しており、この惨状を常時把握していた。そんなТерешковаテレシコワしか搭乗していないВосток-6ボストーク6号が地球へ帰還できたのは、ТерешковаテレシコワВосток-6ボストーク6号を直接操縦する必要が無かったからだ。但し、錯乱したТерешковаテレシコワは、地球帰還前に実行する手順にあった「Восток-6ボストーク6号の状態確認と管制員への報告」を一切やらず、管制員からの問い掛けにも応答しなかったため、無事に帰還できる確証が得られぬまま地上から推進エンジンを逆噴射させており、06月19日08時20分(UTC)に無事帰還できたのは奇跡と言って良い。
    このあたりはTwo Sides of the Moon (ISBN 9780312308667)、和訳版はアポロとソユーズ (ISBN 9784789724524)に詳しい。
    ちなみに、Терешковаテレシコワが起こした惨劇がその後の宇宙開発に与えた影響はあまりに大きい。当事国の旧ソ連は「女性は宇宙飛行士に向かない」と判断、女性宇宙飛行士チームを解散し、1982年にソヴィエト連邦空軍中将Евгенийエフゲニー Савицкийサヴィツキーの娘であるСветланаスベトラーナ Савицкаяサヴィツカヤが選抜されСоюзソユーズ T-7で宇宙に出るまでの19年間、宇宙飛行士を男性に限定した。アメリカではNASAの鈍重な官僚機構が働いて更に慎重となり、初めて女性の宇宙飛行士を選抜するのは、Савицкаяサヴィツカヤの更に後、1983年にSpace Shuttle Challengerの第2回飛行であるSTS-7Sally Rideが宇宙に出るまで待たねばならず、Sallyでようやく3人目となった。それ以降を総計しても、2020年末時点で、宇宙に出た経験がある男性宇宙飛行士が全世界で約450名なのに対し、女性宇宙飛行士が約60名(うち日本人は向井千秋山崎直子の2名)というのは、いかにもアンバランスである。
  12. 尤も、この正義はあくまで民需向けに限った話で、対非共産圏国への技術力の誇示が国の存続に係わる分野では意図的に競わせている。例えば宇宙開発分野はСергейセルゲイ Королёвコロリョフが旧ソ連では巨人であり圧倒的な実績を遺しているが、ソ連共産党はМихаилミハイル Янгельヤンゲルも同じ分野で競わせている。即ち、当時のソ連共産党でも「技術の進歩に競争は不可欠である」ことは認識していたのだ。ただ、Королёвコロリョフの肩書が「第1設計局(ОКБ-1)主任設計者」だったのに対し、Янгельヤンゲルのそれは「第585設計局(ОКБ-586)主任設計者」だったことからも、数字の大小が能力を示すものではなかったとはいえ、Королёвコロリョフが優位だったのは揺がないようだ。
  13. 軍備品の製造過程で発生した、事前に規定した製品規格を満たさない品物は、非共産圏諸国では機械的に弾かれ、軍事機密に該当しなければ『放出品』として民間市場へ安価に払い下げて民需を満たしていたが、さすがに1980年代に入ると民需を満たす国内工業が充分育っており、この払い下げ措置は「民需を満たす」というより「貧困層の救済」や「市井のミリタリー趣味者に提供する」方向等へ変わっていった。翻って共産圏諸国では、この年代に入ったとて資源調達能力も国内工業も育たず生産能力が低いままであり、本来は軍に納品できず民需へ振り向ける規格外品であっても、指示された軍需を満たすためには軍に納品せざるを得ない状況であった。
  14. その典型例が、旧ソ連で1946年に開発され1949年に旧ソ連軍に制式採用されて以降、現在も世界中の軍組織でバリバリの現役である自動小銃・AK-47である。
  15. 15.0 15.1 偶然か必然か、National Semiconductor 4510とほぼ同じ値(挙動)である。特にの演算結果が小数点第4位まで同じなのを「偶然」の一言で片付けて良いのだろうか。National Semiconductor 4510にも記したが、ナショセミはこれに実装した科学・数学向けRPN関数電卓用ワンチップマイクロプロセッサであるMM5760Nの外販を前提に動いており、かつ、MM5760Nは4ビットCPUなので、1950年1月から機能し始めたCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)の規制対象外であることから、旧ソ連はMM5760Nを正々堂々輸入しリバースエンジニアリングした可能性が否定できないと考えている。もしこれが正しいとすると、当時の旧ソ連とアメリカには、少なくとも8年の技術格差が存在したことになる。