丸善 対数表 七桁

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かつては洋書で有名だった丸善が出版した、有効数字7桁の数表。日本語タイトルは「対数表」だが、これは全492ページ中201ページが常用対数表で占められていることから名付けられたようで、常用対数表以外の数表も掲載している。よって、表紙は英語表記のみで"SEVEN-FIGURE MATHEMATICAL TABLES"(七桁数表)となっている。

明治2年に創業した丸善は創業当時から西洋の学術と文化を国内に紹介することで日本の文明開化を促進することを生業としており、その一環として出版事業も手掛けているが、本書は当時の日本の富国強兵殖産興業を目的に、丸善自身が編集者となって、演算結果が無理数となる関数の近似値を簡便に得られるよう自社から出版したものだ。管理人が所有するのは昭和41年(1966年)9月20日発行の第14版第12刷だが、第14版そのものは昭和36年(1961年)10月10日発行となっている。調べる限り第15版が最後らしいが確証は得られていない。

本書には初版に付されたと思われる柴垣和三雄による序文が掲載されている。第二次世界大戦の一局面である太平洋戦争真っ只中の昭和18年(1943年)7月7日に執筆されており、その記述内容は生々しい。曰く

洋書輸入の不可能なる今日であるので定評のある数値表を適当に排列し鮮明に印刷するを企図せられた[1]

とある。つまり本書は、勝算が見えない戦争を仕掛けて自滅し事実上の孤立無援となった国情から已むに已まれず出版せざるを得なかった[2]という出自を持つ。このような書籍が、戦中・戦後を経て高度経済成長期を終えるまで約30年近くもの間、改版を重ねて出版され続けていた事実は重い。

この種の関数の演算を日常業務として行わなければならない往時のエンジニアは、関数電卓が無い以上、必ず本書をはじめとする数表を購入せねばならないのだが、本書の定価は300円とある。本書が発売された昭和41年(1966年)当時の平均月給が33,100円東京都区部でかけそば1杯が55円とあるため、2020年代と較べると凡そ7〜8倍程度と見積れることになり、約2,500円ぐらいになるだろうか。ただ、本書をはじめとする数表は、関数電卓が出現するまでの間はコンスタントに売れ続けることになる。

第14版に掲載されている数表を目次から転載する。


常用対数
常用対数→自然対数
自然対数→常用対数
三角函数の対数
度,分→弧度 弧度→度,分,秒 100分度→90分度
三角函数の真数
諸函数
自然対数
指数関数及其対数
逆三角函数
双曲線函数及其対数
逆双曲線函数及ガンマ函数
平方,平方根,立法,立方根・乗冪・階乗及其対数
逆数,円周,円面積・重要な常数表
素因数及素数の対数・二項係数
経緯距
スタジア表
単位換算表
計量単位比較表

関数電卓が世に出る前までは、本書のような数表から近似値を引き、それを自分が求めたい数式と首っ引きして当て嵌め加減乗除することで、あらゆる関数を演算していた。また、対数を使うことで、いかに巨大な数であっても、乗算を加算に、冪乗を乗算に、それぞれ変換して演算できることも大きい。数表から引いた値の加減乗除は、当初は筆算や算盤で、その後は機械式計算機→電動計算機→四則演算の電卓で実行していた。

このような状況で関数電卓が欲された理由は「数表を引かずに近似値を得る」が第一義で、その次が「得られた近似値を演算に使用できる」「数表より高精度な数値を得る」であった[3]。実際に引いてみると判るが、1つの値を引くのに結構手間が掛かるのだ。裏を返せば、実用に堪える関数電卓が普及すれば、本書のような数表は無用となり、書店からも一斉に姿を消す運命にあるのたが、Casio fx-10のような例もあるため、その後もしばらくは所有し続ける読者が居たようだ。

現在では状態が良い本書の入手は極めて困難である。ある意味でベストセラーであることに加え、関数電卓はおろかパーソナルコンピュータが普及し倒している現代において数表に需要があるとは考えられないからだろう。古書籍商も「希少価値も売れる見込みも無し」と判断しているようで、あまり扱っていない。しかし、巷の好き者からの需要はそれなりにあるらしく、2013年7月、この状況に業を煮やした丸善自身が、実験現場で使用されていた有効数字5桁版の復刻版を出版している[4]

ちなみに、Casio fx-10で引き合いに出した  の本書に掲載されている近似値は0.52110であり、概ね正しい。比較として定義式  から演算してみると、 は1.6487 は0.606531と掲載されているので、単純に演算すれば0.5210845が得られるものの、小数点第10位までの近似値0.5210953055と比較すると、小数点第5位以下は信用できないほど乖離していることが解る。大学の理工学系では必須であろう工学実験レポートを思い出す[5]までもなく、 の有効数字(小数点第4位)から小数点第5位で四捨五入し0.5211で留めるべきで、これが数表による演算の限界である。

丸善株式会社著。1966年9月20日14版12刷発行。丸善株式会社刊。492ページ。丸背溝付き表紙製本。定価300円。

脚注

  1. 即ち「評判が良い複数の洋書の数表から良い感じの箇所を抜き出して1冊にまとめた」ということだが、著作権で問題とならかったのだろうか。当時著作権を規定していた著作権法中改正法律(明治43年6月14日法律第63号)、いわゆる旧著作権法では、第一條に『文書演述󠄃圖畫建築彫刻󠄂模型寫眞其ノ他文藝學術󠄃若ハ美術󠄃ノ範圍ニ屬スル著󠄃作物ノ著󠄃作者󠄃ハ其ノ著󠄃作物ヲ複製スルノ權利ヲ專有ス 文藝學術󠄃ノ著󠄃作物ノ著󠄃作權ハ翻󠄃譯權ヲ包󠄃含シ各種ノ脚本及樂譜ノ著󠄃作權ハ興行權ヲ包󠄃含ス』、第二十一條に『翻󠄃譯者ハ著󠄃作者󠄃ト看倣シ本法ノ保護ヲ享有ス但シ原著著󠄃作者󠄃ノ權利ハ之カ爲ニ妨ケラルルコトナシ』とあるので、条文通りに解釈すれば、種本となった数表の原著者に許諾を得れば問題無しということのようだが、太平洋戦争中で書籍の輸入すら困難とされた相手国の原著者から許諾を得ていたかは微妙な気がする。なにしろ本書には種本となった数表の書籍名やその著者名が一切掲載されておらず、奥付には、著作権に関する記載も、「無断転載、複写を禁ず」の決まり文句も無いからだ。あるのは「出版権所有」という文言だけだ。いくら戦中の混乱期に緊急避難で出版された書籍とはいえ、種本は把握しているだろうに…まるで海賊版である。
    なお、現行の著作権法(昭和45年法律第48号)では、第二条一項(著作物)で『思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。』と定義されているため、数式を演算した結果である数字の列が特定の誰かの著作物になることはなく、著作権は発生しない。よって、数表に掲載される関数の値に著作権は無い。しかし、「関数の値をどういう表組みで掲載するか」即ち「表の形式や方法」は『創作的に表現したもの』に該当する可能性があると考えるべきで、この点は大いに注意を払わねばならないだろう。
  2. なお、当時の大日本帝国陸軍海軍は、それぞれ独自に対数表を編纂し内部で使用していたようで、稀に古書店でも見掛ける。よって本書は民生用・学術用ということになる。
  3. これに「演算速度の速さ」が無いことに注目すべきだろう。四則演算のみの電卓でも同様だが、当初は演算速度は求められなかった。尤も、電卓に数値を入力するのに要する時間より、電卓がそれらを演算するのに要する時間が大幅に短いため、人間にとっては『瞬時』と同等の感覚に陥り、機械式やリレー式と比較するまでもなく「速さ」も満たされることになる。
  4. わざわざ有効数字が少ない5桁版を復刻した理由は不明だ。復刻作業の手間が同じなら桁数が多い本書を復刻したほうが良いと思うのだが、もしかすると手間が違った(掲載されているすべての数値の検算と訂正に、事前に想定していた以上のコストと時間が掛かると見積もられた)のかもしれない。
  5. 管理人が学んだ昭和53年改訂・昭和57年4月施行の高校物理の学習指導要領では有効数字について触れられておらず、授業でも明確に教授された記憶は無い。五月蝿く言われたのは大学の工学実験レポート(有効数字の扱いを誤ると書き直し)であった。しかし、現行最新である平成30年改訂の高校物理基礎では「(ア) 物理量の測定と扱い方について」という項に『例えば,人の歩行運動や斜面を降下する物体の運動などについて時間や位置を測定する実験を通して,測定誤差や実験の精度,有効数字などを考慮したデータの扱いや近似の考え方の初歩,及びグラフによるデータ整理の方法を学習することが考えられる。』とあり、高校で物理を履修すれば有効数字の概念が教授されるようだ。