OMRON 12SR

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数は少ないものの、HP以外のメーカがRPN電卓を製造・販売した例がある。本機はそのひとつで、1976年に日本企業である立石電機株式会社(現・オムロン株式会社)が輸出専用機種として製造・販売した、科学・数学向けポケットRPN関数電卓である。型番である12SRの「12」は演算可能桁数、「SR」はSlide Rule=計算尺を指す。

なお、本機を製造・販売した立石電機も、ビジコン同様、電卓という製品に触れる際には外せない日本企業である。世界市場をも巻き込む激戦だった電卓戦争中の1971年4月19日、電卓の販売価格が俗に「1桁1万円」と謂われていたこの頃に、8桁電卓のOMRON 800を49,800円で発売しオムロン・ショックを惹起したことや、海外を含む数多の電卓メーカのODM/OEM引受元でもあったため自社ブランド製品含め当時最も多くの電卓を生産していた[1]ことでも有名だが、本論ではないので割愛する。

とにかく詳細不明

輸出専用機種である本機の情報は日本国内にほぼ無く、海外のRPN電卓マニアがOne of non-HP RPN calculatorsと触れる程度で、その量は少ない。底面に貼られた銘板から日本で製造されたことは確定しているが、販売時期からして製造年は1975〜1976年と推定される。当時の販売価格(または卸値)も不明[2]である。当然だが附属するマニュアルには日本語が1文字も無く、1ページを縦に2分割して、左側に英語、右側にドイツ語で同じ内容を並記した48ページのパンフレット1冊のみで、背表紙右下に『11909 (4-76) Printed in Japan』とあることから、マニュアルの版下は1976年4月に作られ、日本で印刷されていることは判る。

本機を国内で販売せず輸出専用機種とした理由も不明だが、管理人は「本機の性能がHP製に太刀打ちできなかった」からだと考えている。本機は、特長にある演算例を本機で実行するとHP製と同じ結果が得られることからBCDでの演算と推定され、その演算結果がやけに高精度で同時期に販売されていたWoodstockシリーズより勝っているにもかかわらず、それよりなにより、演算速度が極めて遅いことで有名だからだ。これは三角関数    とその逆関数  、自然対数  とその逆関数  、常用対数  とその逆関数  、冪乗  、階乗  といった、本機に内蔵している機能や関数を使用した演算で顕著となり、例えばの演算に冪乗  を使うと約3.5秒掛かるという超鈍足ぶりである。しかもその3.5秒間は『表示部のVFD全桁が高速でチラつく』という、いかにも「(一昔前の)コンピュータが全力で演算してますよ」というギミック付きでだ。本機の表示部はただでさえ消費電力量が多いVFDを採用しているので、電池の消耗を考えれば、この3.5秒間は何も表示させずブラックアウトさせたほうが良いのだが…。なお、附属マニュアルに記載されている「バッテリの寿命」は、マンガン乾電池とNi-Cd充電池[3]で5.5時間、アルカリ乾電池で10時間である。

本機の1年前に製造・販売されたHP-25の冪乗  は勿論、5年前に製造・販売された世界初のポケットRPN関数電卓であるHP-35の冪乗  でもは数ミリ秒で演算できるのに、後発で新規開発した本機のほうが低速どころか超鈍足というのは異常である。自分で起こしたオムロン・ショックを考えれば、当時も今も異常に高価と映るであろうHP製にRPN関数電卓で対抗するには販売価格で勝負するしか無いはずが、いざ製造してみたらこの体たらく。本機が販売された時期は電卓戦争の末期ではあるものの、ただでさえ日本人は今でいう〝スペック厨〟の気があり、電卓戦争の真っ最中は同価格や同機能で少しでも性能が低い製品はメーカを問わず容赦無くデッドストックと化し、二束三文でも売値が付かない状況に陥るため、企業規模に関係なく大赤字を被ることになり、大企業であれば電卓事業からの撤退、中小・零細企業であれば倒産の憂き目に遭うというその戦況は、まさに血で血を洗う悲惨さであった。しかも本機は科学・数学向けであり、想定される購買層が関数電卓の仕組みや他社の製品動向を把握している可能性が高いため、同機能で高性能(というか当たり前の演算速度)であるHP製に対抗できないと考えたとしても不思議ではない。「この演算速度では、いくら低価格に設定したとて国内で売れないだろう。であれば、演算速度やスペックをあまり気にしない海外へ最初から全台振り向けて、ある程度の卸値で売り切ったほうが、被害は少なく済むのでは?」…立石電機が本機を輸出専用機種した理由は、このような営業面での判断だったと想像している。

Mostekの御仕着せ

管理人は当初、本機は、立石電機がRPN関数電卓市場に乗り込むべくフルスクラッチで自社開発したと考えていたが、それは誤りであった。海外の計算尺マニアが主宰するWebサイトに、本機についての興味深い記事を見つけたのだ。

Mostek, the chip maker of the original Hewlett Packard HP 35 and dozens of other early HP calculators, introduced in 1975 a sensational set of Integrated Circuits with the MK50075A "Data Processor" and two sets of ROM's with 1k*15bits, each, defining the algorithm of the product: MK50101/MK50102: Financial calculator and MK50103/MK50104: Scientific calculator We know only six calculators based on the MK50075A and MK50103/104 chip-set: APF Mark 55, Corvus Model 500 and its twin Emerson E12, this Omron 12SR, the Sanyo CZ-2901 and Privileg SR54NC. But they all have two things in common: RPN and superior performances.

(ヒューレット・パッカードのHP-35をはじめとする数多くの初期HP電卓のチップメーカであるMostekは、1975年に、MK50075Aデータプロセッサと、製品のアルゴリズムを定義した1k×15ビットROMの2セットを搭載した素晴しいICセットを発表した。MK50101/MK50102:金融・財務向け電卓とMK50103/MK50104:科学・数学向け電卓で、MK50075AとMK50103/104チップセットを採用した電卓は6機種しかない。APF Mark 55Corvus Model 500とその双子であるEmerson E12、Omron 12SR、Sanyo CZ-2901Privileg SR54NCである。しかし、それら全てに、RPNと優れたパフォーマンスという2つの共通点がある。)

つまり、本機を含む6機種のRPN電卓は、HP-35でも登場し、それ以降もHP製RPN関数電卓では不可欠な半導体ベンダであるMostekが1975年に独自開発したマイクロプロセッサMK50075Aと、RPN関数電卓用ソフトウェアROMであるMK50103MK50104を組み合せただけの、謂わば「Mostek御仕着せのRPN関数電卓」だと判ったのだ。海外のRPN電卓マニアにより本機の基板が公開されているが、確かにマイクロプロセッサと2個のROMの型番は合っている。それまで立石電機は伝統的に日立製作所製のカスタムLSIで電卓を製造していたので本機だけイレギュラーということになるが、電卓メーカの立場からすれば、半導体の供給元を複数確保できれば納入価格を下げられる可能性が上がるため、試験的にMostekから出来合いの電卓用LSIを量産最小ロットだけ購入して製造したのが本機なのかもしれない。

更に、上記抜粋にもあるCorvus Model 500/APF Mark 55/本機を解説した書籍・Everything you've always wanted to know about RPNが1976年にT. K. Enterprisesから7ドル50セントで発売されていたことも見つけた。HP以外の電卓メーカによるRPN関数電卓、正確に言えば先述した3個のMostek製LSIを採用したRPN関数電卓を解説するという、実売部数が見込めないだろうニッチ過ぎる書籍[4]だが、これを読むと、これら3個のMostek製LSIを採用した全てのRPN関数電卓で内蔵関数を含む物理キーへの機能配置がまったく同じであることが判る。機能やキーアサインはHP製をよく研究した(もしくは真似した)もので、プログラミング機能は存在しないものの、スタックの名称はX・Y・Z・W[5]とされ、10個用意されているメモリへの記憶  、メモリからの呼び出し  、スタックXとYの入替え  、各スタックを巡回して表示 R⬇ 、冪乗  は、HP製と機能ともども同じである。また、度量衡換算機能として、キログラム⇔ポントの変換  、センチメートル⇔インチの変換  、リットル⇔ガロンの変換  、摂氏⇔華氏の変換  ができる[6]のも同じだ。

整理すると、このMostek製LSIを採用したRPN関数電卓の機能は、HP-35の後継機種として1973年5月1日に発売されたHP-45とほぼ同じになるため、スペックとしてはHPから3年遅れていることになる。

三角関数/逆三角関数の演算で使用できる角度の単位として、本体上部の物理スイッチでは度数  とグラード(フランス度)  しか設定できず、最も使用頻度が高いであろう弧度  に設定するには、シフトキー(本機ではfunction keyと名付けている)   と入力せねばならない他、度数もしくはグラード(フランス度)から弧度への変換として   が内蔵関数として割り当てられているが、これはMostek製ROMの仕様のようだ。即ち、このROMでは、電源ON直後は物理スイッチに依り度数  モードかグラード(フランス度)  モード[7]、オプションキーと  で弧度  モードで動作する。そのため、電源スイッチ以外の物理スイッチを増設することによる価格高騰や要らぬ故障の誘発を嫌ったからか、Sanyo CZ-2901以外の4機種ではグラード(フランス度)モードが省略されている。

また、この同じ時期(1975年〜1976年)に、アナログ半導体の代名詞として有名な大手半導体ベンダであり10年ほど前にTIに買収されたナショナル セミコンダクター(通称ナショセミ)も、自社開発のLSIによるRPN電卓を7機種(Novus 650 Mathbox/Novus 3500 Sliderule/Novus 4510 Mathematician/Novus 4515 Mathematician PR/Novus 4520 Scientist/Novus 4525 Scientist PR/National Semiconductor 4640)製造・販売したが、この7機種で撤退している[8]

このような一連の経緯が判ると、1975年〜1976年の電卓業界の様子が目に浮かぶ。即ち、

  • 電卓戦争も終戦間近であるこの時期には既に、一部からは圧倒的な支持を受けていたものの、RPNはマイノリティとなっていたこと。
  • RPN関数電卓はHPしか製造・販売しておらず販売価格も高止まりしたままであることを見据えて、HP以外の電卓メーカが価格勝負でRPN関数電卓市場へ参入しようとしていたこと。
  • HPからRPN関数電卓専用LSIの製造を受託されRPNの肝を知っているはずのMostekがRPN関数電卓専用のチップセットを作っても、その演算速度は超鈍足[9]で、世界中で6機種にしか採用されず、RPNの実装に一日の長があるHP以外がRPNに手を出すことを躊躇わせるには十分な出来事だったであろうこと。
  • 1973年に電卓市場へ参入したナショセミは、自社の半導体工場でLSIを開発・製造できるため、価格競争力が他社より強い[10]にもかかわらず、PRN電卓の販売継続を断念せざるを得ないほど、HPの機能と性能が勝っていたこと。

といったことが容易に想像できるのだ。

ただ、結果論ではあるものの、これ以降「RPN電卓」という製品そのものがHPの独擅場となってしまったことが、良かったのか悪かったのか、判断に苦しむところではある[11]

ちなみに、本機の基板にはMostek製LSI以外に、東芝製の、表示部に採用されている14桁分のVFD蛍光表示管ドライバICが3個実装されている。VFDは1966年に日本で発明された技術で、電卓戦争の最中に電卓の表示部として採用されたことで技術が進歩したデバイスだが、裏を返せば、1970年代の電卓で表示部にVFDを採用しているのはほぼ日本メーカのみであり、海外メーカは殆どで7セグメントLEDを採用しているため、表示部がVFDというだけで日本製の電卓である可能性が極めて高い。

再三記述している通り、本機は輸出専用機種であるため、国内で入手するのはほぼ不可能(少なくとも管理人は国内で売られているのを見たことがない)、eBayをはじめとする中古市場やオークションサイトで海外から購入するしかない。管理人は4台所有しているが、入手先はスペイン・イギリス・旧東ドイツ・アメリカとバラバラである。

スタック 3+1段
プロセッサクロック周波数 不明
使用電池 単3形×3本
製造期間 1975年?〜1976年?
製造国 日本
1976年発売当時の定価 不明

脚注

  1. まったくの余談だが、小学校低学年だった管理人が初めて触れた電卓は、自宅の居間に転がっていたOMRON 8Sである。管理人が産まれる前の新婚だった母親が家計簿をつける際の、算盤からの乗換え先だったようだ。
  2. ほぼ同時期に販売されていたと推定されるSanyo CZ-2901の、オーストラリアでの販売価格が60ドルだったそうだ。AUDにしろUSDにしろ、1975年頃は1ドル=300〜320円なので、日本円で約20,000円と考えて良いだろう。とすると、メーカからの卸値は32〜34ドル=10,000円周辺だろうか。
  3. 本機は、乾電池の代わりに単3形Ni-Cd充電池を装着し、別売の純正ACアダプタ(4510AL)で充電して使用することもでき、満充電まで15時間と記載されている。附属マニュアルと電卓背面の銘板によれば、ACアダプタの出力は「DC4.5V、200mA、センターマイナス極性」で、本体上面左側のジャックを確認すると現在最も標準的な「⌀2.1mmプラグ」であるため、センターマイナス極性への変換だけ注意すれば、Ni-Cd充電池ACアダプタの代替品はいくらでも入手可能である。充電池はNi-MH充電池でも問題無いと思うが試していない。
    なお、HP製RPN関数電卓では、RPN電卓マニアによる充電回路の解析や実験で、交換する充電池がNi-CdではなくNi-MHでも問題無いことが確認されているため、同じ形でも充電容量が2倍以上多いNi-MHへの置換が急速に進んでいる。
  4. やはり売れなかったようで、2020年時点では、当時出版された実物(古本)の存在が確認できていない。所有者は居るので、出版されていたことは間違いないようだが。
  5. HP製RPN電卓で3+1段スタックの場合はX・Y・Z・Tと名付けられ、最上位である4段目のTはTopの略だが、本機の4段目であるWの意味は、附属マニュアルにも解説書にも記載されておらず不明である。管理人の想像では「アルファベット順がW→X→Y→Zだから」。つまり、Wに特段の意味は無く、日本語で甲・乙・丙・丁や仁・義・礼・智を使うときと同様、単なる記号であろう。
  6. このMostek製LSIでは、キログラム⇔ポントの変換  、センチメートル⇔インチの変換  、リットル⇔ガロンの変換  、摂氏⇔華氏の変換  が、それぞれ  と     に割り当てられている。なお、HP-45/HP-46には  が実装されていない。
    尤も、もし本機が日本国内で開発されていたなら、このような度量衡換算機能は実装されないだろう。これらはすべてアメリカやヨーロッパで使用されている単位系で、日本国内では換算する需要がほぼ無いだからだ。その意味でも本機の開発が日本国内ではないことが判る。
  7. 物理スイッチでソフトウェアROMの特定のピン間を短絡することで  モードとなる。よって、物理スイッチが常時ONとなるような故障が発生すると、度数モードが使用できなくなる。
  8. ナショセミは中置記法の(関数)電卓も自社開発LSIで多機種を製造・販売していたが、1980年頃には電卓市場そのものから撤退している。
  9. 1984年11月9日にアメリカでSemiconductor Chip Protection Act (半導体チップ保護法)が成立する前まで、世界中の半導体ベンダが互いに競合他社の回路パターンを剽窃して製造・販売すること自体が違法ではなく、特に、世界初のマイクロプロセッサであるIntel 4004を開発したIntelはそれに悩まされ続けた。裏を返せば、この時期のMostekは、HPが起こした回路パターンを剽窃することも可能だったのだが、HPとの契約なのか、単に紳士協定なのか、Mostekはそれをやらなかったようだ。なお、日本でも、1985年5月31日公布の半導体回路配置保護法により、登録から10年間保有できる回路配置利用権が知的財産権の1つとして定義され、違法となった。
  10. 一例として、1975年末時点で、HPがHP-45の定価を395ドルから195ドルへ値下げして販売していた時、ナショセミは対抗機種であるNational Semiconductor 4640を半値以下の90ドルで販売できていた。
  11. 2001年時点のHPの莫迦な経営判断で強制的に終幕させられてしまい、今となっては「RPN電卓」という製品そのものが廃れたも同然であることと、現在のHPに電卓の製造品質を保つ能力が無いことがHP-15Cの限定復刻版の製造時に白日の下に晒されたことから、終幕させられる前のHPによる、一貫して無駄に高品質なRPN電卓が市場に供給され続けたこと自体が世界中の好事家を熱狂させたという事実を考慮すると、良かったのではないかと思う反面、RPNそのものはプログラミング言語やCPUアーキテクチャで生き続けており死ぬことは有り得ないので、粗製濫造でも構わないから「RPN電卓」という製品は生き長らえて然るべきとも考えており、この面では悪かったのではないかと思う。つまり、愛憎相半ばする感想を抱いている。