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RPN電卓/歴史と現在

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RPN電卓を継続して開発・製造しているのがHewlett-Packard Company(以降HPと略す)だけである以上、RPN電卓の歴史は、HPによる電卓の歴史とほぼ同じとなる。

とはいえ、RPN電卓はHPの専売特許ではなく、事例は非常に少ないものの、HP以外の企業も開発・販売していた。特に有名なのが旧ソ連の軍産複合体で製造されたЭлектроникаシリーズだろう。理由は不明だが、旧ソ連は、当時の衛星国であった旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)からわざわざエンジニアを招聘してまで多機種のRPN関数電卓を開発・製造・販売していた。インターネットのお陰で通販の商圏がグローバルとなった現在では、どこで埃を被っていたのか、そのとき製造されたデッドストックの新品が旧東欧諸国から捨て値同然の価格で売り出されており、管理人もいくつか購入した。

以下では、HPの電卓の歴史と、謎が多い旧ソ連の電卓の歴史について、その概略を述べる。

HPの電卓の歴史

電卓が発明された直後から黎明期には様々なメーカから様々な記法で生産・販売されたものの、半導体が未成熟で高価だった初期は加算器方式が、熟れて価格が下がってからは中置記法が大勢を占めており、グローバルな視点からもRPNは普及しなかった[1]先述したとおり、RPNでは必ずスタック用にメモリを多数実装しなければならないが、半導体にしろ磁性体にしろ、電卓黎明期のハードウェア製造技術では部品としてのメモリが非常に高価だったため、メモリの実装数に比例して製品の販売価格が吊り上がることになるからだ。そのため、黎明期の電卓にはメモリそのものが無く、その後も加算器方式や中置記法の電卓でも必要最低限しか実装されなかった。

そんな情勢であるにもかかわらず、1968年にHPから発売された世界初の関数電卓であるHP 9100AはRPNを採用した。販売価格が4,900ドル(当時の為替相場で1,764,000円。以降同じ)と非常に高価である[2]から許されたのかもしれないが、HPは「RPNが合理的だ」と判断したのだ。

それには理由がある。HP 9100Aの開発に当たりHPが目指したのは、当時高価だった「ミニコンピュータの小型化・低廉化」だからだ。具体的には、ミニと言ってもその大きさが「フルハイトの19インチラックが数本」という規模のミニコンピュータを「開発を指揮したHPの創業者であるBill Hewlettの秘書が使用しているL字型の机のタイプライタ置き場[3]に置ける程度」に収め、「販売価格は5,000ドル程度」とすることが目標とされた。そのためには、演算アーキテクチャと各関数の演算アルゴリズムの規模を極限まで簡素化しつつも、演算精度はミニコンピュータと同等以上を維持するのが絶対条件となるが、1960年代後半のHPの開発陣が、その時代に存在した技術力とハードウェア(部品)の価格を冷静に俯瞰し、あらゆるコストを勘案した結果、序説でも触れた「中置記法→RPN変換」等の余計な機能を全て排し、ハード・ソフト両方の規模を極小化する=開発と製造に掛かるコストを極小化するために、計算機工学で最も基本的な実装であり動作原理であるRPNを採用せざるを得ないという結論に至ったのである。間違ってもHPが好んでRPNを採用した訳ではないことは強調しておかねばならない。

それはHP 9100Aのマニュアルを読むだけでも強く感じる。HP 9100A Operating and Programming Manualは、販売価格に見合うとは思えぬ、表紙を含めてもたった34ページしかないパンフレット然とした小冊子だが、ここではRPNを採用した利点はおろか、操作体系がRPNであることの説明[4]はもちろん、RPNやスタック[5]という単語も一切記載しておらず、「関数電卓の操作は、こういうものなんです」と然も当たり前のようにスタックの概念とRPNの操作をさらっと5ページで説明し、それ以降はレジスタ(スタック)と内蔵関数の使い方とプログラミングの説明と技法に終始する、という内容である。それ故、中置記法の電卓を使用した経験がある購入者がこのマニュアルを読むと、操作体系が異なることについて何の説明も無いため、妙な読後感を抱くことになる。なぜなら、演算する式を分解する役割が人間であることを購入者が気付かぬように、言い換えると、RPNを採用していることが購入者に露呈しないよう、用意周到に書かれた不自然な文章の塊だからだ。尤も、計算機工学を学んだ購入者なら文章の意図に気付く書き方はしており、初めて関数電卓に触れる購入者なら先入観なしに「関数電卓ってのは、こう操作するものなんだな」とRPNの概念と操作を学ぶ書き方ではあるのだが、どちらにしろ最終的には、電卓はRPNしか使えない体にされてしまったであろうことは想像に難くない。なお、HP 9100Aが「世界初の関数電卓」とカテゴライズされるようになったのは、実装された機能と関数から定義付けされた、後付けの結果論である。

こうした事情で世に出た『RPN電卓』というマイノリティが現在まで一部で熱狂的な支持を受け生き長らえた一因は、序説でも述べた通り「RPNという概念が元来持つポテンシャル」であることを否定できる者は居ないだろう。ただ、世間一般の大半は数式の読解を中置記法で学んでいるので、技術的・価格的制約が原因とはいえRPNだけを押し付けるのは気が引ける…そんなHPのジレンマが、HP 9100Aが成功した後、机上設置型関数電卓の第二世代として1971年に発売したHP 9810Aでは引き続きRPNを採用したにもかかわらず、その後、1972年に発売したHP 9820Aと1973年に発売したHP 9805Aでは立て続けに中置記法を採用したことからも透けて見える[6]。「ハード・ソフト両面で技術的・価格的制約が緩くなってきた今のうちなら、関数電卓の操作方法を、他社と同じ中置記法へ移行できるのではないか?」。しかし、HPはRPNを切り捨てられなかった。1976年に発売した第三世代であるHP 9815Aで再びRPNに戻したのだ。「RPNを切り捨てて中置記法へ移る好機を読み誤った」と言ってしまえばそれまでで、その正確な理由は外部に漏れ伝わってないものの、HP 9815Aのスペックが、その間にHPから販売され大成功を収めたHP-35HP-29C等のポケットRPN関数電卓の操作方法と使用感を統一すべく、演算ロジック(ソフトウェア)を3段スタックから4段スタックへ、キーボードの配置をポケットRPN関数電卓に似せたものへ、それぞれ変更していることからも、関数電卓の先駆者となってしまったHP自身ですら、苦肉の策で採用したRPNの虜になっていく過程が窺えて興味深い。HP 9100Aを販売して8年という歳月は、RPN中毒に冒された関数電卓ユーザを市中に増殖させるには十分過ぎる時間であり、新規開発が可搬型のみとなった後のHPにも、中置記法の関数電卓と並行してRPN関数電卓を新規開発・販売させた原動力は、こういった〝RPNの魔力〟にあったと管理人は考えている。

ちなみに、HPでは現在に至るまで一貫して、関数電卓の正式名称を「Calculator:カリキュレータ」としている。即ち、入力方式がRPNだろうと中置記法だろうと加算器方式だろうと、HP 9100Aから始まる机上設置型関数電卓は「デスクトップ・カリキュレータ」、HP-35から始まる可搬型関数電卓は「ポケット・カリキュレータ」である。その理由は、「世界初の関数電卓」であるHP 9100Aを発売する際、Bill Hewlettがそう決めたからである。

"If we had called it a computer, it would have been rejected by our customer's computer gurus because it didn't look like an IBM," Bill Hewlett once remarked. "We, therefore, decided to call it a calculator and all such nonsense disappeared."

(「もし我々がそれを『コンピュータ』と呼んだら、それはIBMのコンピュータと同じようには見えないので、お客様のコンピュータ担当者に拒否されたでしょう」とBill Hewlettはかつて述べた。「そこで我々はそれを『カリキュレータ』と呼ぶことにして、そういった難癖を付けられないようにしたのです。」)

しかし、当時のHPの本業は「電気・電子計測機の製造・販売」であったため、HP自身は「カリキュレータ」というカテゴリの製品群を、自社の主力製品である高精度な電気・電子計測機で得られた結果を基に高精度な演算結果を科学者やエンジニアに提供するための付属品と考えていたようだ。そもそもHPが1966年に初めて顧客へ販売したミニコンピュータ・HP 2116A自社製の電気・電子計測機を遠隔操作して計測結果を収集し、それらの値からユーザが組んだFORTRANプログラムに従って演算後、その結果を出力するために開発・製造されたものであったり、Bill HewlettがHP-35を開発させた直接の動機が「HP 9100Aが胸ポケットに入れば、HP社内で使うのに便利だ」というものだったことにも、その思考が表れている。「社内で製品開発するのに、ミニコンピュータと同等の高精度な演算がその場でできれば嬉しいだろ?」という意図での発言だろう。つまり、HPとしては、自社の主力製品である電気・電子計測機で顧客が得た計測値がそのまま利用される場面は少なく、その計測値に対して顧客が何等らかの演算を実行して得た値を使用していることに着目し、「だったら、その演算も正確に実行できる『追加装備オプションパーツ』として、コンピュータやカリキュレータも自社で用意すれば良い」と考えたに過ぎず、あくまで電気・電子計測が主、そこから発生する演算は従だったのだが、そんなHPの思惑とは無関係に、ミニコンピュータを出自としているが故の高精度な演算が功を奏してHPのカリキュレータは評判となり、必ずしも自社の主力製品である電気・電子計測機のユーザに追加装備として売れただけではなく、それ以外の科学者やエンジニアに「関数電卓」という単体の製品として多数売れることになる。オプションパーツが主力製品へ化けたのだ。

これを受け、HPは電卓事業への本格参入を決断するのだが、その事業戦略は、当時の他の電卓メーカとは一線を画したものであった。即ち、「他社との競争に打ち勝つべく、無闇矢鱈に多機種を粗製濫造する」のではなく、「ある程度絞った用途に向けた少量機種を、ハードウェアもソフトウェアも自社で開発・製造し、販売価格に見合う性能と品質を担保する」という、1960年代後半〜1970年代前半のアメリカ的生活様式を前提とした大量生産・大量消費から距離を置いた、地に足がついたものであった。そのため、HPのRPN関数電卓は製品寿命が長く、1機種を最短でも2〜3年間、最長では40年以上継続して製造・販売している。また、予想だにしなかったHP-35の大成功を教訓に、今後起きるであろう電卓の可搬化を見据え、いずれ価格勝負となるのが必定の四則演算のみの電卓には見向きもせず、従来からの自社の強みでありブランド化にも成功した、高精度・高機能演算が売りの机上設置型RPN関数電卓をいち早く可搬型へ換骨奪胎することで、電卓市場のうち「高精度・高機能関数電卓の分野でデファクトスタンダードの地位を確保する」ことを目指したのだ。事実、電卓事業からいったん撤退する2001年末までのHPは、四則演算のみの電卓を自社開発・製造していない[7]。四則演算のみの電卓をターゲットにした電卓戦争を勝手に起こして勝手に雌雄を決するつもりだった同時期の日本メーカとは、電卓市場に対する視座がまったく異なっていた[8]ことになるが、電卓が主力製品である電卓専業メーカのように薄利多売を競わねばならない理由が皆無であるが故の「醒めた戦略」とも言える。

電卓戦争中も終戦後も、日本を含め世界中のメーカから関数電卓は発売されたが、「RPNでは販売価格が高価になる」という状況は、半導体メモリが低廉化する2000年代まで変わらなかった。故に、他社は押し並べて中置記法を採用、HPも中置記法の関数電卓を開発・製造したものの、それでもRPN関数電卓を継続して開発・製造するのはHPのみとなり、RPNは電卓界でマイノリティと化してしまう。

2001年末、このときHPの最高経営責任者に就任したのが、極端な人員削減と先見性も脈絡も皆無の事業戦略を乱発、その内容を検証された後年に「企業を衰退させる経営の典型例」とまで断言された、悪名高い Carly Fiorinaだった。彼女はまるで当然のように電卓事業からの撤退を決定。しかも撤退方法が「電卓事業の他社への譲渡または売却」ではなく「事業部門まるごと閉鎖、従業員は全員解雇」という極端な内容だったことに世界は驚き、33年の歴史を強制的に終幕してしまった。もし成立していればHPにも多少なりとも実入りがあったと思われるが、なぜ電卓事業を他社へ譲渡もしくは売却しなかったのかは今も謎である。

しかし、このニュースへの反響とRPN電卓を熱望するユーザの声はあまりに大きく、HPは2003年に電卓事業に再参入する羽目になり、現在も細々とではあるが電卓事業を運営している。なぜ細々となのかは後述する。

旧ソ連の電卓の歴史

電卓の黎明期である1960〜1970年代に理学や工学の分野を圧倒的にリードしていたのはアメリカとソ連だが、両国の有り様は正反対であった。民主主義・資本主義のアメリカは、基本的に、税金が投入された国家的プロジェクトは成否関わらず広く自国民を含む世界中に公開しており、現在でも(資料が散逸していなければ)時系列に沿って閲覧できるが、社会主義・共産主義のソ連は悉く逆を行った。新聞・ラジオ・テレビを含む全ての報道機関はソ連共産党の管制下に置かれ、自国民はもちろん、連邦国や衛星国、仮想敵国である非共産圏諸国を含む諸外国には、慎重かつ厳重に検閲された内容が公式見解として“広告”されるに留まった。存在が噂される国家プロジェクトや組織は存在自体を否定するのが通例で、もし成功したとしても、それが「自国と連邦国と衛星国の国民の士気を鼓舞し、社会主義・共産主義の勝利を世界中に喧伝できる」ものでなければ非公開とされた。その好例が、月探査をはじめとする宇宙開発競争と、核弾頭と搭載した大陸間弾道弾による先制攻撃を主目的とする軍備開発競争だが、この2例ですら、華々しい成功だけが都合良く改竄されたうえで“広告”され、失敗や都合の悪い点は全て鉄のカーテンの裏に隠されていたのはご存知の通りだ。

そのソ連も1991年12月25日に崩壊した。当時のソ連共産党書記長であったМихаилミハイル Горбачёвゴルバチョフが実施したПерестройкаペレストロイカ(再構築)Гласностьグラスノスチ(情報公開)による民主主義化が引き金となったのだが、殊にГласностьグラスノスチが非共産圏諸国の理学・工学の分野に与えた影響は大きかった。当然、あらゆる事項が全て正確に公開されたと認識するのは早計だが、そういった事情を差っ引いても、ソ連崩壊後に分離・独立した元連邦国や衛星国から自然と漏れ出す、それらの国々の間に厳然とあった理学・工学に関する想像以上の格差は、アメリカや日本を含む非共産圏諸国に強烈なカルチャーショックを与えた。片やソ連では、有人宇宙船打上ロケットの総称であるСоюзソユーズ(連帯)や、核兵器を開発する能力を持っていたにもかかわらず、片や有力な衛星国だった東ドイツでは、国営企業が製造していた小型乗用車Trabantトラバントが、1958年に空冷2気筒2ストロークエンジンにFRP製ボディという、中型バイクに屋根と座席を強引に載せた玩具のような構造で登場して以降、1度もモデルチェンジされることなく、ベルリンの壁が崩壊し西ドイツに吸収される1990年まで当たり前のように生産され続けていたりした。即ち、軍事(に直結する)技術の開発には、共産主義国家としての威信と矜持を賭けて死に物狂いで非共産圏諸国に伍する結果を出すべく総力を注ぎ込むものの、国民の生活で使われる日常必需品には、事実上の鎖国状態となった時点で保有していた技術から進歩するどころか退化していたり、嗜好品に至っては製造すらされなかったことが白日の下に晒されたからだ。市場に競争が無く、情報に格差が有ると、一事が万事、進化は止まりサイロ化する⸺勝手に巻き込まれた共産圏諸国の一般国民からすれば堪ったものではないが、約50年に及ぶ「社会主義・共産主義による国家運営」という壮大な社会実験は盛大に失敗したと結論付けて良いだろう。

そんな旧ソ連のコンピュータや電卓に関する情報や実機が、数は圧倒的に少ない(誰もそんな情報を求めてないからだろう)ものの、現在では調査・入手できるようになった。閲覧性が高い情報源としてelektronika.suあたりが挙がるが、ccTLDが.su[9]であるため、記載内容の信憑性という意味では鵜呑みにするのは危険で、複数サイトを比較・検討する必要がある。

1950年1月から機能し始めたCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)の枠組により、NATO(北大西洋条約機構)加盟国と日本とオーストラリアは、1985年以降、ソ連をはじめとする共産圏諸国へ『16ビット以上の高性能CPU』の輸出を禁止した。これを食らったソ連は、1983年に成立した「『8ビットCPU』によるホビー用PC規格」であるMSXを日本から大量に購入し徹底的に使い倒すことにした。8ビットCPUはCOCOM規制対象外だからある。しかし、当時のソ連共産党が決めた使用目的は「学校教育」や「宇宙開発」であったため、一般国民にMSXを販売する訳も無く[10]、もし何らかの非合法的手段で入手できたとしても一般国民が手を出せるような価格では無かったであろうことは容易に想像できる。そんな社会情勢下に置かれたソ連の一般国民が、どうにか自力で購入・所有できる最新鋭のコンピュータは関数電卓であった。

ソ連で四則演算のみの机上設置型電卓の「設計が完了した」のは1961年のレニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)である。EKVM(Электронная Клавиатура Вычислительная Машинаの頭文字をキリル文字からラテン文字へ翻字したもの。英訳するとElectronic Keyboard Computing Machine)と呼ばれ、スイッチング素子として半導体とフェライトコアが採用されたようだが、これは世界初の電卓と謂われているイギリス企業・Bell Punch社がAnita Mk8を発売した1962年より早い。しかもAnita Mk8がスイッチング素子として計数放電管を実装していた頃に半導体を使うことを想定していたようだ。

その「設計が完了した」机上設置型電卓が実際に「量産」され「配布」されたのは1964年で、名前はВега(英語でVega、日本語で「こと座α星(織女星)」)。その3年後である1967年に三角関数を演算できるEDVM(Электронная Десятью клавишами Вычислительная Машинаの頭文字をキリル文字からラテン文字へ翻字したもの。英訳するとElectronic Ten-Key Computing Machine)が、EDVM-11という型名で「軍の地政部門に引き渡された(一般国民は購入できなかった)」が、これが恐らくソ連初の机上設置型関数電卓である。

ちなみに、これら電卓にはЭлектроника(キリル文字からラテン文字へ翻字するとElectronika、英語でElectronics、日本語で「電子工学」)というブランド名が付けられることになる。これは旧ソ連では当たり前に存在した軍産複合体であるソヴィエト連邦電子産業省の配下にあった工場が生産した電子部品に使われたブランド名だが、その後、その電子部品を使って製造された家電製品にも付けられるようになったようで、以後一貫して付与され続けている。

如何なソ連でも電卓を可搬化する流れはあったようで、1974年5月に四則演算のみのポケット電卓・Электроника Б3-04 (Electronika B3-04)が「州委員会に引き渡され」、その後は一般国民にも発売している。表示部には液晶ディスプレイを、入力方式には加算器方式を、それぞれ採用し、電源は単3電池1本としている。なお、型名にあるБはロシア語で家電製品を意味するБытовая техникаの頭文字で、Б3はポケット電卓を指す共通型番となる。それ以外だとБ2は机上設置型電卓、Б5は電子時計だったそうだ。Б3-04である本機は「ポケット電卓第4号」とでも訳すのだろうが、ソ連共産党が電卓を家電製品と区分けしていた[11]のは興味深い。

最初のポケット関数電卓の開発が完了したのは1975年末。翌1976年にЭлектроника Б3-18 (Electronika B3-18)として220ルーブルで発売されている。学校を卒えたばかりのエンジニアの月給が120ルーブルだったので、相当高価な家電製品である。とはいえ、実装されたマイクロプロセッサK145IP7はレジスタの使い方の詰めが甘かったらしく、テイラー展開が必要な関数を演算させる際は要注意だった。例えば5+sin30がそのまま演算できない。sin30の近似値をテイラー展開で演算する際、先に5を記憶させていたレジスタをテイラー展開時の作業レジスタとして上書きしてしまうからだ。つまり、ユーザがマイクロプロセッサの動作仕様を理解したうえで演算させる順番を入れ替えなければ求解できない代物で、この場合はsin30+5とキーインする必要があった。月給以上をつぎ込んで買った家電製品がこの有様では、非共産圏諸国であれば「欠陥品だ!」というクレームの嵐とともに返品されるだろうが、共産圏ではどうだったのだろうか。なお、Б3-18は中置記法である。

Б3-18から2年後、1978年に発売されたЭлектроника Б3-19М (Electronika B3-19M)が、ソ連初のRPN関数電卓である。3段スタックで、表示部は12桁あるものの演算有効桁数は8桁しかなく、プログラミングもできないというプリミティブなポケットタイプだが、ソ連としては、関数電卓に初めてRPNを採用したことよりも、浮動小数点による表示と演算が可能となったことのほうが大きかったようだ。Б3-19Мの開発に当たり、ソ連は、衛星国である東ドイツからエンジニアを参加させているが、なぜそこまでしてソ連が関数電卓にRPNを導入し、その後も断続的にRPN関数電卓を製造したのか、その理由は不明である。この1978年には5機のСоюзソユーズ(27号28号29号30号31号)が成功裏に宇宙に上がっており、これらミッションで本機が使用されたのかもしれないが、公式な記録は確認できない。ひょっとすると核開発で使われていたのだろうか。

電卓が最初に製品化されたのはイギリス、その後の大量生産と価格下落は日本が担っていた事実と、貴重な外貨を費やしてまで電卓を日本から輸入する余裕は無かったからなのか、はたまた連邦国や衛星国や非共産圏諸国への見栄と技術力や指導力の誇示のためなのか、旧ソ連の軍産複合体による電卓の国内製造は続いた。独自に開発した機種もあれば、明らかに非共産圏諸国の製品を真似た機種もあったようで、その総計は100機種程度と謂われているが、主な輸出先であろう連邦国や衛星国の人口を考えると少ない。1980年代に入ると衛星国である東ドイツ・ブルガリア・ルーマニア・ハンガリー・ポーランドでも独自に電卓を製造するようになっていたことと、自国の経済悪化が定着してしまったことで旧ソ連国民に電卓を買う余裕は無かったであろうことから、旧ソ連の電卓製造量はもともと多くなかったと推定される。しかし、1991年12月25日に旧ソ連が崩壊すると軍産複合体が機能しなくなったため製造は完全に停止、ちょうど30年で旧ソ連の電卓の歴史は終幕となった。現在、ロシア国内で販売されている電卓は全て外国からの輸入品である。

現在

では、再参入後のHP電卓の現状はどうか。ハッキリ言えば「残念」の一言である。

これは、2001年の部門閉鎖と従業員解雇が仇となり、自社単独で電卓を開発・製造する技術力とノウハウが復旧できないことを悟ったHPが採った再参入戦略が「開発・製造を台湾Kinpo Electronics, Inc.丸投げ[12]する」としたからだ。その結果、至極当然の成り行きではあるが、「再参入後に発売している『HPブランド』の電卓は2001年以前の製品とはまったく別モノ! 低品質過ぎる!」と罵詈雑言が飛び交うほどソフトウェアのバグやハードウェアの造りに問題が散見される事態となった。しかも再参入の一因だったRPN電卓の現行機種も徐々に減り、2021年6月時点ではHP-12Cのみとなってしまったが、この現行品のHP-12Cも70ドルという価格に見合わぬほど壊れ易いと聞く。「外装や基板の剛性が下がった」とか「ARMにVoyagerプロセッサをソフトウェアエミュレーションさせて動作させるのは無理がある」とか、要因は様々あるようだ。

このような惨状から、管理人は、現行製品の購入はお勧めしない。RPN電卓とはどのようなものか、その使用感を確かめる程度ならば現行製品でも構わないが、RPN電卓を気に入り、使い込むことを考えたなら、2001年以前製造の新古品や中古品[13]か、2001年以前の製品からソフトウェアを吸い出してPCやスマートフォンで動かせるようにしたエミュレータの使用を強くお勧めする。幸いなことに、世界中のRPN電卓マニアによるエミュレータは山ほど出回っており、シェアウェアであっても現行製品はもとより2001年以前製造の新古品や中古品より低価格なのも利点である。管理人もAndroidスマートフォンではHP-41CXのシェアウェアエミュレータであるgo41cxを購入、複数の拡張モジュールのソフトウェアイメージともどもインストールしており、実機を持ってない外出先では便利に使用している。

脚注

  1. 当初の主戦場は国内だけだったが、やがて輸出向けにも広まった電卓戦争の真っ最中だった国内メーカでも、RPN電卓を輸出向けに生産していた。残っている実機として、1976年に立石電機株式会社(現・オムロン株式会社)が輸出専用機種として生産したOMRON 12SRと、三洋電機株式会社が生産したSanyo CZ-2901が確認されている。
  2. 日本国内向けには横河・ヒューレット・パッカード株式会社(YHP)から1970年に1,694,000円で発売された
  3. 完成したHP 9100Aを開発陣がBill Hewlettへ報告がてらデモする直前、その大きさが、設定された目標である「Bill Hewlettの秘書が使用しているL字型の机の右側にあるタイプライタ置き場」に僅かに収まらないことが判明した。そこで開発陣は「形や色など外観はまったく同じで、大きさだけ、HP 9100Aを載せても違和感が無い程度に拡げた机」を地元の家具屋に発注、休日にこっそり差し替えてからデモに臨んだ。そのお陰でデモは首尾良く成功、Bill Hewlettは机が差し替えられたことに気付かず、You see! I knew you could do it! (ほら見ろ! 君ならできると思ってたんだ!)褒めた逸話が残されている。
  4. HP-35のマニュアルでようやくThe operational stack and the reverse "Polish" (Lukasiewicz) notation used in the HP-35 are the most efficient way known to computer science for evaluating mathematical expressions. (HP-35で使用している演算スタックと逆「ポーランド」(ウカシェヴィチ) 記法は、計算機工学で知られている最も効率的な、数式を評価するための方法です。) と1行だけ触れられている。恐らくHP 9100A以降に発売された他社の関数電卓が中置記法を採用しており、それらとの操作方法の違いを説明する必要があったのだろう。3年後に発売されたHP-25のマニュアルにはWith this system, you enter numbers using a parenthesis-free, unambiguous method called RPN (Reverse Polish Notation). (このシステムでは、RPN(逆ポーランド記法)と呼ばれる、括弧が無い、明瞭な方法で数値を入力します。) の一文で始まる、RPNの利点を説くページが設けられていることから、既にこの頃からRPNがマイノリティである自覚はあったようだ。なお、Lukasiewiczの正しい綴りはポーランド語のŁukasiewiczだが、ここではマニュアルの記述に従った。
  5. 以降の機種ではスタックと呼んでいるX・Y・Zを含む19個すべてのメモリを、HP 9100Aではレジスタと呼んでいる。X (KEYBOARD)・Y (ACCUMULATOR)・Z (TEMPORARY)の3レジスタは表示専用、0〜9・a・b・c・dの14レジスタはプログラムまたはデータ用、e・fの2レジスタはデータ専用である。これらは内蔵する磁気コアメモリに格納されるが、磁気コアメモリはその性質上、演算終了後や電源をOFFにしても残留磁気により内容がクリアされない可能性があるため、マニュアルに記載された全ての入力例では、レジスタに数値を入力する前に必ず CLEAR を押下してレジスタの内容をクリアする手順となっている。
  6. そういう意味では、1972年に発売した世界初の可搬型関数電卓であるHP-35がRPNを採用したのは、HP 9100Aの新規開発時と同様、筐体の大きさと部品価格、そして可搬型では特に重要な消費電力を勘案した結果、技術的・価格的制約から已むを得ず…と捉えるべきであろう。
  7. 2001年末での撤退までで唯一の例外はHP-10であった。2003年の再参入後はその殆どをKinpo Electronics, Inc.ODM製品としたためか、四則演算のみの中置記法の電卓を2機種販売している。HP Quick Calcは2008年8月から、HP EasyCalc 100は2009年4月から、いずれも現行品である。噂では「関数電卓が持ち込み不可、四則演算のみの電卓だけ持ち込み可の試験で使用するために、HP製電卓のキーボードのキータッチを好むユーザが購入する」ために販売しているらしい…なんとニッチな需要であることよ。
  8. これは、日本をはじめとする電卓メーカの開発動機が「算盤や手回し式計算機または電動計算機といった機械式計算機を使用した演算業務を、まずは静粛に、そしてできれば高速にできるようにするため」であることも大きい。即ち、出自も狙っている市場もHPとはまったく異なり、電卓メーカは凡そ四則演算が発生する場所全て(マス)だが、HPは科学者やエンジニアなどの専門職(ニッチ)であった。
  9. 1990年9月19日に旧ソ連に付与されたものだが、約1年後である1991年12月25日に旧ソ連は崩壊したため、ドメイン情報を管轄するICANNにより廃止されるべきだったところ、のらりくらりと生き続け、現在ではロシアの親プーチン青少年組織やウクライナ東部の親ロシア武装反乱組織など、いかにも旧ソ連といった趣の、組織の出自が怪しいWebサイトでしか使われていない。通常であれば1994年4月7日にロシアに付与された.ruが使われるはずである。
  10. 1985年の日本がソ連から輸入したのは海産物・木材・鉄鉱石などの食糧や資源という季節変動が大きな品目が大半で、安定的な外貨収入が見込めないため、国民の趣味のために貴重な外貨を流出させる理由が無い。
  11. このカテゴライズは各国でも分かれるようだ。日本では家電製品ではなく文房具として扱われていることが多い。特にカシオが電卓の販路として全国津々浦々の文房具店を開拓したこともあって、電卓が文房具店で購入できることに違和感が無い。そもそも電卓は算盤からの置換を狙った製品なので、算盤を売っている文房具店で扱われていても不思議ではないからだろう。現代では家電量販店で扱っているが、いわゆる街の電器店で電卓を扱っていた記憶は、少なくとも管理人には無い。
    アメリカでは文房具もしくは日用品として扱われているようで、文房具店や電器店はもとより、ディスカウントストアでも関数電卓が購入できる。
  12. HPから見れば不採算事業であったかもしれない電卓事業を、これまで築いた〝HPブランド〟を利用して、外部に開発・製造を丸投げすることで採算を合わせるために、わざと、こういう対応をしたと思われる。
  13. 中古品はそうでもないが、稀に出て来るデッドストックな新古品は非常に高価である。