HP-34C

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1979年7月1日〜1983年4月1日に販売された、HP-25を含むWoodstockシリーズの次の世代にあたる、第三世代の上級プログラム関数電卓。この世代はSpiceシリーズと呼ばれているが、本機のコードネームはBasil (ハーブの一種。バジリコ)である。

本機はSpiceシリーズの科学・工学・数学向け関数電卓では最上位機種に当たるが、ポケット関数電卓として世界で初めて、形式の任意の方程式で、方程式の求根ルートソルバ  と、任意の区間で定積分を演算する数値積分  の2機能が実装されたことと、本機の階乗  は、階乗の概念を複素数全体に拡張した特殊関数であるガンマ関数が演算できる[1]ことが最大の特長である。スタックXに非負の整数をプッシュして  を押下すれば階乗を、任意の数をプッシュしてを減算後に  を押下すればガンマ関数を、それぞれ演算する。96関数を内蔵した本機の物理キーは30個しか無いことから、1個の物理キーに4機能を割り当てるべく、シフトキーが    の3段構えとなった。3段シフトキーはClassicシリーズのHP-65HP-67に続き3機種目で、一部ではリアルモンスターとも呼ばれている。

プログラムは通常で70行、20個あるユーザレジスタを開放することで1レジスタあたり7行追加できるため最大で210行を保存できる。HP-25とは異なりサブルーチンや間接ジャンプ命令も設定できるうえ、本機の型名の末尾にCがある[2]通り、バッテリに残容量がある限りは電源をOFFにしてもレジスタやプログラムの内容が消失せず保存される。

これ以外はこれまでのハードウェアを踏襲しており、赤色7セグメントLEDによる10桁表示、純正ACアダプタ(HP 82087B[3])で純正充電池(HP 82109A)を充電することで最大3時間ほどコードレスで使用できるなど、ほぼ同じである。HP 82109Aの実態は2本直列の単3形Ni-Cd充電池だが、HP-25の純正充電池(HP 82019A/B)とは異なり、専用プラスティックケースに収めたものではなく単3形電池を2個並べた外形そのままであるため、現代であれば単3形アルカリ乾電池で置き換えて使用するほうが便利である。ただ、その外形故、様々なベンダから純正充電池の代替となる充電池が販売されており、充電池の入手には困らない。

販売政策の犠牲に

このように本機は割と華々しくデビューしたのだが、残念ながらあまり人気が出ず、販売台数は伸びなかった。理由は「HPによるRPN関数電卓のラインナップと価格の政策」にある。1979年7月1日、HPは本機と同時に、現在でも大変人気があるHP-41シリーズの初代であるHP-41Cも発売したのだ。

本機発売当時のHPは、RPN関数電卓のラインナップと価格の政策上、本機とHP-41Cの存在意義を明確に分けていた。両機を比較すると、販売価格では、本機はHP-41Cの半値で、実装された機能では、本機は単体でルートソルバや数値積分があるもののHP-41Cは単体でこれらを演算できず、別売の純正アプリケーションパック(HP-41シリーズ用数学拡張モジュールもしくはHP-41シリーズ用数学・統計拡張モジュール)を購入する必要があった。これらの差は、経済面から購入時の制約が厳しいものの高機能なプログラム関数電卓を求める購買層には本機を、制約が緩い購買層にはHP-41Cを、という意図で付けられたものと推定されている。尤も、本機には拡張性が無く、表示部は部品価格も仕様も熟れた7セグメントLEDを採用しだが、HP-41Cには4口の拡張スロットが設けられ、HPでは初めて液晶ディスプレイを採用し、実装したLSIやICの数も倍以上多い等、両機に価格差を付けなければならない要素は政策以外にも十分有るのだが、それらを差し引いても、人気面や販売量で本機はHP-41Cに敵わなかった。

その結果、当時の購入希望者が、本機の販売時期と実装された機能と価格を、前世代であるHP-25およびHP-25CHP-41Cを含めて比較すると、ちょうど狭間に落ち込む形で没個性に映ってしまったことと、1982年7月1日にHPは本機の後継機種としてHP-15Cを発売したが、当然のように本機より高機能かつ低価格となったHP-15Cが選択されたからである。マニアの間では「HP-25HP-25Cを買って数年後に、本機とHP-41Cを同時に売られても、財布が持たない」「最大の敵はHP-15CHP-11C。(中略) 本機を十分に拡張したのがHP-15Cであり、本機からルートソルバと数値積分を削るとHP-11Cになる」「比較すればHP-41Cが本機より優れていたのは明白だ。本機を選択する唯一の理由は価格だ」等と議論された。通常の四則演算は当然として、本機が内蔵している各種関数を使用した演算性能そのものは現代でも通用する精確さがあるだけに、非常に残念な扱いをされてしまったことになる。

その後にHPがHP-15Cを発売した際にも、HP-41シリーズをHP-12C/HP-15C/HP-16C等と同等以上に関数や機能を拡張するためのアプリケーションパックであるHP-41シリーズ用アドバンテージ拡張モジュールを発売することで、このラインナップと価格の政策を維持した。即ち、購入時の制約が厳しい層に勧める機種を本機からHP-15Cに置き換えたのだが、皮肉なことに、それまでのHP製RPN関数電卓とは一線を画す斬新かつ小型なデザインの筐体、表示部に液晶ディスプレイを採用したことでバッテリの長寿命化に成功しACアダプタを不要にしたこと、そしてなにより本機に実装された機能や関数に加え複素数が扱え行列も演算できるのに本機より低価格であること等、本機と比較する気を失せさせるほど高機能なHP-15Cは爆発的に売れた。ますます本機の立つ瀬が無い。HP-15Cは1989年1月1日に販売終了したものの、現在でも製造復活が所望される名機にまで登り詰めるたが、1983年4月1日の販売終了後は誰からも省みられることなく姿を消した本機とは、あまりに対照的である。もし本機が喋るとしたら、己の不遇を託つであろう2機種のうちのひとつが本機である(もうひとつはHP-55)。

なお、このラインナップと価格の政策は、8年半後の1988年1月1日に一新され、その3日後である1988年1月4日に発売したHP-28Sから適用された。その間に劇的な進歩を遂げた半導体の品質向上と価格低下が、一新せざるを得ない状況にHPを追い込んだからだ。尤も、HP-28Cとその改良版であるHP-28Sは、ユーザからもHPからも「失敗作」と捨て置かれたため、本機やHP-41シリーズを含む科学・数学向けRPN関数電卓の後継機種は、機能からも販売価格からもHP-42Sのみ1機種に収斂されてしまい、1990年3月16日にHP-48SXが発売されるまでは雌伏の時期[4]だったのだが。この意味でHP-42Sは〝一般ユーザ向け〟のRPN関数電卓の、ひとつの頂点であろう。〝RPN電卓マニア向け〟の頂点はHP-41シリーズから不動だ。

以上のような状況と、現代でも充分通用する演算精度を持つ本機を既存のユーザが手放す動機がほぼ皆無であることから、eBayをはじめとする中古市場やオークションサイトには殆ど出品されず、状態の良い個体を入手するには同志の伝手を辿ったほうが早い。これは他のSpiceシリーズでも同様だ。また、この状況に引き摺られるように、HP電卓マニアによるSpiceシリーズに関するアーキテクチャやチップセットのプロセッサクロック周波数等のハッキング情報が皆無だ[5]。これらをハックするには否が応にも分解する必要があるが、比較的気軽に分解できるほどタマが無いのか、そもそもマニアですらSpiceシリーズに興味が無いのか…もしかすると、歴代のHP製RPN関数電卓で最も謎に包まれているのがSpiceシリーズかもしれない。

スタック 3+1段
プロセッサクロック周波数 不明 (Spice)
使用電池 HP 82109A (2.4V 450mAh 充電池:中身は単3形Ni-Cd充電池×2個直列)
製造期間 1979年〜1983年
製造国 アメリカ、シンガポール、ブラジル
1979年発売時の定価 150ドル (約35,850円)

脚注

  1. 階乗はSpiceシリーズから実装された関数だが、そもそも階乗が実装されていないHP-25は当然として、階乗が実装されているHP-41CXHP-42Sでもガンマ関数を演算するにはプログラムを組む必要がある。ちなみに、本機の次にポケットRPN関数電卓単体でガンマ関数が演算できるのはHP-15Cである。
  2. 型名の末尾に付けられたCの意味はHP-25の脚注を参照のこと
  3. Spiceシリーズの純正ACアダプタにはHP 82087Aも存在するが、本機のように型名の末尾にCが付けられたSpiceシリーズの機種では必ずHP 82087Bを使うよう指示されている。本機マニュアル271ページではUse only the "B" suffix version ac adapter/recharger shipped with your calculator (see product number on recharger). Earlier "A" suffix version rechargers will not damage your calculator, but may clear continuous memory when plugged in. (本機に同梱されているBバージョンのACアダプタ/充電器のみを使用してください(充電器の製品番号を参照してください)。それ以前のAバージョンを使用しても本機は破損しないものの、連続メモリの内容をクリアしてしまうかもしれません。)と警告している。
  4. HP-28Sを失敗作と断じたことから、HPは、依然として売れ行きが好調だったHP-41CXを249ドル(約35,000円)に値下げして1990年11月1日まで販売していた。HP-42Sが性に合わなかったり、HP-15Cの購入を逸してしまったりしたユーザの救済策でもある。
  5. 全機種で同じベンチマークプログラムを走らせ、これが走り切る時間を計測することで他機種と比較する手法では、220kHzのHP-15Cよりは速いことが判っており、300〜350kHz程度ではないかと推定されている。